エッセイ

「実は人見知りなんです」を信じていいのか

2017/10/11(水) 公開

「実は人見知りなんです」を信じていいのか

「趣味は人間観察です」

芸能人のプライベートを聞き出すトーク番組はいつの時代も多いけれど、かなり前に流行った応答が「趣味は人間観察です」で、少し前に流行ったのが「休みの日はインドア派なんです」で、最近の流行りは「実は人見知りなんです」ではないか。統計をとったわけではなく、この手の番組を定点観測してきた皮膚感覚に過ぎないのだけれど、そう感じる。

「趣味は人間観察です」と話す芸能人を見ながら、人間観察を趣味にする大前提は、人間観察していることを周りに悟られないようにすることなのだから、脇が甘くないか、と思ったし、「休みの日はインドア派なんです」との告白にひとまずスタジオの面々が「意外!」と反応した後に続く話は、いつも決まりきっていてつまらない。目覚ましをかけずに寝たら、あるいは好きなゲームに没頭していたら、あっという間に夕方になってしまいました……という展開が8割である。

「休みの日はインドア派なんです」には、「こう見えて」との前置きが隠されていることが多く、皆さんは私に活発な印象を持っているかもしれないけれど、意外にも、という展開でその場を盛り上げていく。これは「実は人見知りなんです」アピールにもつながってくるが、今、とにかく芸能人の皆さんが、「私たちも皆さんと変わらないんですよ」とプレゼンしてくることが増え、それはもちろんSNSの浸透と関わっているわけだが、素直なファンたちはそれに歓喜し、偏屈な人たちはどうせ本当はもっとイケイケなんだろ、と死語を用いて妬(ねた)み直す。いや、そもそも、「皆さんと変わらないんですよ」というプレゼン自体が、同じ場所にはいない、という前提を明らかにしていると思うのだがどうだろう。

やたらと求められる「コミュニケーション能力」

誰よりも目立つ職業である芸能人の皆さんが、私たちと同じ生活をしている必要はないはずだが、芸能人の側が躊躇(ちゅうちょ)しがちな傾向がある。そんな彼らからしきりに聞こえてくる「実は人見知りなんです」とのアピールには、一体どういった狙いがあるのだろうか。

ライターとして芸能人にインタビューすることもあるが、確かに人見知りの人は多い。だが、お笑い芸人にしろ俳優にしろ歌手にしろ、どんな職業よりも、神経を研ぎすませて自分の表現に集中する意味や目的が明確なのだから、それ以外のコミュニケーションが苦手であっても一向に構わないと思う。「人見知り」という響きが良くないのかもしれない。「そう簡単に人に心を開かない人」とでも変換すればいい。何となく、信念のある人、みたいな感じも出てくる。

いわゆる企業社会で、やたらと求められるようになったのが「コミュニケーション能力」。人見知りは、このコミュニケーション能力に欠ける、と見なされる傾向があり、たとえば採用面接に臨む学生が、真っ先に克服すべき項目として挙げられる。「面接 人見知り」と検索してみれば、その悩み相談や解決方法がいくらでも出てくる。えっ、別に人見知りのままでいいじゃん、と野放しにしてくれる意見はまったく見当たらない。

グローバル人材の定義は、人見知りじゃないこと

就職活動にしろ、ご近所付き合いにしろ、フレンドリーに接する姿勢はいかなる場でも褒めたたえられる。個々人が目指すべき人間像を規定することなど難しいし、ましてや、要求された人間像に従う必要なんてないのだけれど、たとえば「我が国の成長を支えるグローバル人材の育成とそのような人材が活用される仕組みの構築を目的として設置」(首相官邸ウェブサイト)された「グローバル人材育成推進会議」なる組織が規定している「グローバル人材」の定義を見てみよう。

「語学力・コミュニケーション能力、主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感、異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティーなどを有する人材」

何だかすごい。その定義をクリアできるか自問自答してみたところ、自分で「有する」と声高に宣言できるのは、ものすごく甘めに採点して2つか3つくらいしかない。考えてみれば、この項目の大半が「人見知りではない」前提に立っている。「コミュニケーション能力、主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性」なんてほとんど同義語であって、こうして畳みかけてくる勢いを冷静に振り払って考えれば、要は「人見知りはダメだからね」と言われているわけだ。

自分語りで介入する

「グローバル人材」になる必要なんてないが、こうして公に「理想の人物像」が問われた時、人見知りは真っ先にダメな人と排される。人見知りって、本当にダメなのだろうか。

少し自分の話をしてみる。寝る前にスマートフォンに内蔵されている歩数計を見たら「85歩」という日があって、この運動不足はさすがに深刻だと思い、近所にあるスポーツクラブに入会することにした。マシンで鍛えるつもりはなく、プールを利用したいだけなのだが、受付に出向くと、いわゆる体育会系育ちの、コミュニケーション能力に長けていそうな爽やかな青年が担当になった。彼は、こちらを見て、開口一番、こう言った。

「プールのご利用ですか? あっ、自分、プールの選手だったんす。結構、インターハイとか出てたんすけど、実は大学時代に大きなケガしちゃって、選手を続けることができなくなっちゃったんで、この仕事しているんっすよね。だから、僕、プールサイドにいることが多いので、見かけたら、気軽に話しかけてくださいね」

こちらの返事は「はい」のみ。持ち前の肺活量を生かしたのか、話を途中で遮るタイミングをつくらなかった。彼の姿勢が「コミュニケーション能力、主体性・積極性」ならば、いつまでもそれを携えようとは思えない。爽やかな青年は、入会手続きが終わるまで、始終爽やかな青年で居続けたのだけれど、こちらがそちらの介入にたじろいでいることに一切気付いていないようだった。

「実は人見知りなんです」を警戒する

個人的には、「人見知り」というのは、文字のままに「人を、見て、知ろう、と試みるプロセスが長い」ってことだと思っているので、その時間がどこまでも長くったって、なんら恥ずべきことではないはず。むしろ、自分はこうなんです、そちらはどうですか、という手短なやりとりによって、即座に人を知ろうとする展開って雑に思える。あらかじめ作ってきた料理を持ち寄って食事会を開きましょう、よりも、時間をかけて料理を一緒に作りませんか、のほうが相手のことを知れると思う。一度、介入されてしまったが最後、もちろん、プールサイドにいる彼に話しかけられるはずもない。彼がいないことを確認して、安堵する日々が続く。今日はいるかもしれないと思うと、緊張する。

「私たちも皆さんと変わらないんです」というアピールのために、「実は人見知りなんです」が使われやすいフレーズになっている。あまり豪快に人の領域に踏み込むものではない、という認識が高まっている中で、人見知りでいる、というアピールが、加点項目になってきているのだろうか。歓迎したいが、ひとまず警戒する。それこそ、こういった特集記事によって、「人見知り」が問われることにより、副作用として、極めてポップな「僕、こう見えて、人見知りなんすよ」が生まれるかもしれない。

人見知りは悪いことではない。そう固めてしまうと、コミュニケーション強者たちが「実は人見知り」と更に活用し始めるに違いないので、先んじて防御したくなる。防御するために団結しませんか、と声をかけても、人見知りは集まるのに時間がかかる。3年くらいかかる。その弱点をさすがに理解している。ただとにかく、人見知りは悪いことではないのだから、「実は人見知りなんです」の侵食から身を守らなければいけない。申し訳ないけれど、あなたがプールの選手だったことは、私にとってはひとまず要らない情報なのだ。こちらから聞くまで待っていてほしいのだ。人を見て、知るのには、おしなべて時間がかかるのだ。

武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年からフリーライター。著書に『紋切型社会―言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)、『芸能人寛容論―テレビの中のわだかまり』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)などがある。